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趣味のレベルですが ~その1~

 「大和」と書いて「ヤマト」と読むのはなぜでしょう。そのルーツは弥生時代までさかのぼり、日本語がヘブライ語・アラム語の影響を受けたという説に基づいて書いてみました。ついでに、邪馬台国の謎にもちょっとだけ(^^;)

紀元前600年頃(日本書紀による神武元年は紀元前660年)、

大勢のユダヤ系アジア人が渡来して、ヘブライ語・アラム語をもとにした古代語を話す弥生人が誕生。縄文人と共存しながら徐々に増えていきました。

*渡来しなかったユダヤ系アジア人は、長江上流に残ってチベット族(チャン族)になり、後に秦(しん)を建国します。

 

古代語を話す弥生人は支那大陸の人と交流。

  支那人「お前はどこから来たのか?」

  弥生人「ヤ・ゥマット・イ(神と民の島)です。」

弥生人は、自分たちの国を当時の言葉で「ヤゥマット・イ(ヤマト島)」と紹介していました。

(参考資料:日本とユダヤのハーモニーhttp://www.historyjp.com/article.asp?kiji=66

 

紀元前150年、前漢の「漢書」に弥生人が登場します。

  漢人「それにしても、お前たちは真面目だね。」

  弥生人(小さくお辞儀をしながら両手を合わせて挨拶)

  漢人「そんなに小さくかしこまるなら『倭』という文字がピッタリだ。」

ということで、漢書、後漢書、魏志倭人伝に弥生人のことを「倭人」、倭人の国を「倭国」と記述しました。

 

紀元前206年に秦国が滅びると、秦国の民は朝鮮半島南部に逃げ、一部は九州北部に移住しました。

紀元前6030年頃、吉野ヶ里に住んでいた旧秦民は瀬戸内海を東へ移動し、纒向(まきむく,奈良県桜井市)にやってきました。なぜなら、纒向には紀元前200年頃に秦の始皇帝の遣いでやって来た徐福(じょふく)の村があったからです。これがホントの神武東征かな?

 旧秦民は、纒向にヤマト国(神と民の国)を建国し、ハツクニシラススメラノミコト(崇神天皇)を中心に政治・医療・祈祷などを行いました。

 

 

西暦150年頃、ヤマト国は九州南部に勢力を拡大するためニニギノミコトを派遣します(天孫降臨)。隼人(はやと,宮崎および鹿児島県)は協力的で、ニニギの孫のウガヤフキアエズの頃には九州をほぼ制圧しましたが、熊襲(くまそ,熊本県)は抵抗し続けました。

 

西暦200年頃にウガヤ(仲哀天皇)が逝去すると、妻のオキナガタラシヒメが女王として九州を治めました。彼女は、のちに神功皇后と称され、魏志倭人伝に卑弥呼(ピムッコ日向子)と記される人物です(やや自説)。

*古代日本人はどのような言葉を使っていたのでしょうか。昔、使い捨てカイロ“キンチョーどんと”のTVコマーシャルで、原始人が「チャップイ、チャップイ、どんとポッチイ。」(寒い寒い、どんと欲しい)と言っていましたが、あのような言葉だったという説もあります。

 

西暦240年頃、魏の使者が倭国を訪れ、九州一帯を治める上記女王の国にたどり着きました。

  魏の使者「ここにはたくさんの国があるが、一番大きい国はここか?」

  女王「いいえ。ここは筑紫支部(出張所)です。」

  魏の使者「では、本部はどこか?」

  女王「日が昇る方角(纒向)にあります。そこは私の出身地で、首都です。

  魏の使者「そこは何という名の国か?」

  女王「ヤゥマットィ(ヤマト)です。」

  魏の使者「邪馬台だな。よしわかった。後で行ってみるからメモしておこう。」

という会話があったのではないでしょうか(自説)。

*邪馬台国はどこにあったのか?素人から偉い先生まで様々な説があります。私は、倭人伝に書かれている「女王国」と「女王之所都」は別の場所を指し、「女王国」は出張所で「都」が纒向と考えれば結論は出たと思っています。

 

その後、首都をちょこちょこ遷都しながらヤマト王朝が成熟するにつれ日本列島全体を(倭国と書いて)ヤマト国と言うようになりました。

 そこで「せっかく大きな国にまとまったから、倭じゃなくて大倭にしようか。」

という提案により「大倭」と書いてヤマトと読むようになりました。

 その数百年後「倭という字は“小さいヤツ”っていう感じが嫌だね。倭から和に改めよう!」

それ以降「大和」と書いてヤマトと読むようになりました。

 

7世紀後半、第40代天武天皇時代に国の名前が「日本」となりました。

唐では日本と書いて「ジッポン」と読み、唐を訪れる外国人には「ジャパン、ジャポン」と発音され、世界に広まったと考えられています。

 

以上、趣味レベルですが大ざっぱに書いてみました。

それぞれの細かいところについて、時々書きたい思います。