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趣味のレベルですが ~その2~

 今回は、スサノオノミコトが登場。「その1の⑦」の続きです。

西暦240年頃、邪馬台国に向かった魏の一行は、邪馬台国の一つ手前の「投馬国」に入りました。その投馬国は出雲国という説があります。現在、出雲と書いて標準語では「イズモ」と発音しますが、出雲弁では「エヅモ」と発音します。これが、古代は「エトモ」(現在の松江市鹿島町沿岸部)と発音していたともいわれ、ならば、それを聞いた魏の使者が「投馬」と書き記した可能性があります。

 その出雲を最初に強くしたのはご存知スサノオです。古事記では八岐大蛇(オロチ)を退治してクシナダヒメ(櫛名田比売)と結婚しました。その時「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」と日本初の和歌を詠み、日本初の神社である「須我神社」が建ちました。

 

 下の写真は、雲南市大東町にある須我神社です。先日お参りしてきました。

 

スサノオが活躍したのはいつ頃なのかというと…

 

紀元前200年頃、朝鮮半島には日本人(倭人)を王とした辰韓、馬韓、弁韓の三国がありました。

秦国が漢人によって滅ぼされると、旧秦民は朝鮮半島南部の辰韓まで逃げて、生き延びるため辰韓に製鉄や養蚕を教えました。

また、馬韓は優れた航海技術を持っており、早くから倭国本土と積極的に交流していました。

 

 

ちなみに、韓国人の先祖は、当時辰韓と高句麗の間で暮らしていた「濊族(わいぞく)」といわれています。

紀元前150年頃、辰韓は徐々に旧秦民に乗っ取られようとしていました。そこで、辰韓の王族であるスガ(ソガ)王子は、辰韓奪回の準備をするため倭国本土(出雲)へ渡りました。これがスサノオです。スサノオは、出雲の民に鉄の加工技術などを伝え、いきなりカリスマ的存在になりました。

さらに、近隣の馬韓系豪族(特に、北方には野蛮なオロチョンがいた)をまとめて国を大きくし、軍隊を整えました(騎馬戦が得意で強い!)。

 

 スサノオは、朝鮮出兵を繰り返しましたがなかなか辰韓を奪回できません。実際は、武力による攻撃ではなく「我々スガ(ソガ)王族を怒らせるとこわいぞ!」と脅しに行っていたのでしょう。

旧秦民は倭国と戦争する意思はなく、スサノオの脅し対して「まあまあ、そんなに怒らなくても」と上手にかわしていたのかもしれません。

 

 スサノオは、朝鮮出兵と同時に、纒向(「その1の④」参照)にも出向いていました。なぜなら、纒向は少し前に秦の始皇帝の遣いでやってきた徐福の村で、中心人物は旧秦民だからです。

そこらへん何か政治的取引などしていたと思われますが、なんと!スサノオは近畿地方で亡くなってしまいました。そこで「スサノオさん呪ったらアカンよ。成仏しなはれ。」と熊野で祀られ(熊野古道は世界遺産)、出雲では熊野神社で祀られました。

*纒向にヤマト国が誕生したのは、このエピソードから100年後。

**私は、大化の改新で有名な「蘇我氏」はスサノオと同系の辰韓系倭人の子孫と考えています。

 

 歴代天皇が継承してきた「三種の神器」の一つ「草薙剣」は、スサノオが退治したオロチの尻尾から出て来た「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」だとされます。纒向にヤマト国を建国し、その後各地に遷都しても、天皇はスサノオへの畏敬の念を代々継承されているのでしょうか。